コラム 第15回

オリンピックは「勝つ」ことに意味がある

先日、生まれ育った町で聖火ランナーを務めてきた。
聖火への思いは、前回のコラムで述べたとおりだ。

オリンピックのテーマに「復興五輪」が掲げられているが、今回リレーで走った鬼怒川堤防も、5年前に豪雨で決壊し、凄まじい被害を受けた場所だ。
災害の傷を背負いながら、懸命に復興生活を送られる方がたくさんいるなかで、沿道にきて「頑張って」と応援してもらえたことが、どれだけうれしかったか。
日頃、スポーツ選手はよく「みなさんに勇気や希望を与えたい」と言うものだが、それは逆で、私たちこそがみなさんの応援で力をいただいているというのを改めて感ずにはいられなかった。

オリンピックは、命を懸けて戦う場所

オリンピック直前の今、私が選手たちへ送るエールとして伝えたいのは、「無理やり楽しもう、という考えをもつ必要はない」ということだ。
以前コラムにも書いたが、オリンピックはまったく楽しいものではないし、緊張感やプレッシャーで押しつぶされそうになるのが当たり前だ。
無理やり「楽しんできます」と虚勢を張る必要はない。
試合直前まで、自分の気持ちを偽り、緊張から逃げようとする方が怖いものだ。

先日、柔道の合宿で井上監督がこう話していた。
「オリンピックは、命を懸けて戦う場所、すべてを懸ける価値のある場所だ」と。
私もまったくの同意見だ。

オリンピックは通過点で、出場することに意味があるという人もいるかも知れないが、私は、オリンピックは「勝つ」ことに意味があると声を大にして言いたい。

試合前は、勝利への欲望をむき出しにして、「自分は何のために戦うのか」をつねに考えながら、自己中心的な時間を過ごしてよいと思う。自分の感情を殺さずに、しっかり向き合うことを大切にして欲しい。

よく「強い選手には、まわりの人を寄せ付けない独特のオーラがある」というが、それは本人が出そうとして出しているのではなく、自然とにじみ出てくるものだ。それまで積み上げてきたことを普段どおりに出せる冷静さと落ち着き、そして「負けるものか」という鬼のような闘志や根性など、いろいろな感情が混ざり合うことで独特のオーラができあがる。

オリンピックは、当たり前の人間では勝てない世界だ。
金メダルは、勝利への異常なほどの執着心をもって自分の感情をうまくコントロールし、最高のパフォーマンスを出せたものだけが手にできる栄光なのだ。

オリンピックの魔物に飲みこまれるな

コーチとしてオリンピックに参加するのは、今回で2度目になる。
実は、前回のリオのときは、選手のときには体験したことのないような極度の緊張とプレッシャーで、選手の試合中、思うように声が出ないという体験をした。
選手のときですら「緊張で体が思うように動かない」ということはなかったので、こんなにも声が出なくなるものなのかと、初めて味わう感覚だった。

戦うのは選手だし、選手よりも気持ちが楽だということはまったくない。
指導者も、朝から胃が痛い、夜は眠れない、食事も喉に通らないというプレッシャーを感じながら、選手たちを精一杯支えている。コーチもそれなりの準備をしておかないと、オリンピックの魔物に飲みこまれるのだ。

あの緊張感を、この夏、再び味わうことになるのだろう。

オリンピックは無観客で行われるが、最高の舞台であることに変わりはない。観客の応援が力になることは確かだが、観客がいないから戦えない、試合にならないということは一切ない。
選手たちにとっては、すべてを懸けて目指してきた舞台にやっとたどり着けた、そういう感覚のほうが大きいはずだ。

オリンピック開催に関しては賛否両論あり、筋違いの選手批判にも広がったが、「感染しても関係ない」と他人事として捉えたり、リスクを軽視したりしている人は、選手の中にだって誰ひとりとしていない、ということを伝えておきたい。
多くのものを犠牲にして、この日、この瞬間のためだけに懸けてきたのだから、どんな状況であれ、私たちは結果を残さなければならないのだ。

そんなさまざまな思いを胸に戦う選手たちの姿を、ぜひ目に焼き付けて欲しいと思う。

 

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